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Kendrick Lamar

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バイオグラフィ

真っ黒のサングラスに、さらにドス黒い仏頂面を引っさげ、N.W.A.が『Straight Outta Compton』を手にシーンに登場して以来、”CPT”ことコンプトンは、あらゆる暴力、貧困、そして残酷さを世に知らしめる街として見なされてきた。 トップ・ドッグ・エンターテイメント/アフタ−マス・エンターテインメント/インタースコープ・レコードの所属アーティスト、ケンドリック・ラマーが生まれたのは、このアルバムがリリースされる1年前の1987年、コンプトンがまさに無秩序状態にあるときだった。しかし、ケンドリックは確かに”そこにいた”ものの、自分もその”その一員だった”という自覚はないという。 「ああ、確かに俺たちは貧しかった。だが、そんなふうには見えなかったね」とケンドリック。彼の両親は、シカゴから西海岸のこの街へと越してきた。「典型的な暮らしだったよ。母さんは生活保護を受けながら、ケンタッキー・フライド・チキンで働いてたし、父さんはストリートでやることやって、何とかやりくりしてた。そんな状態でも、両親は俺を養ってくれてたし。大人になって、結構苦労したんだなってわかったけど、それでも俺は普通のガキでいられたし、人並みに生きられたからね」 ケンドリックは自身の幼少期を、映画『ポケットいっぱいの涙』の主人公”ケイン”のそれになぞらえる。ケンドリック少年が育った自宅は、夜になるとホームパーティーの会場にもなった。アイズレー・ブラザーズの「For the Love of You」から、ボーン・サグズン・ハーモニーの「Foe tha Love of $」まで、あらゆるBGMをバックに、さいころゲームやバーベキューが繰り広げられた。しかし、この映画とも、映画のストーリーを地で行く彼の多くの友人たちとも違い、ケンドリックが道を踏み外し、ドラッグの密売人やギャングの構成員になることはなかった。 「非行に走らずにいられた唯一の理由は、父さんが常にそばにいて、俺の人生に関わってくれたからさ」とケンドリック。「父さんに言われたんだ。もし俺が自分のやったことで痛い目に遭っても、父さんのところへ逃げ帰ってくるな。もう伝えたからなと。実際、そういう場所にも数回行ったことがあるが、自分の友人たちがハッパ漬けになって、一生ムショ暮らしになるのを目の当たりにしたら、父さんがそばにいてくれて俺は本当にラッキーだと思ったんだ。そう学んでからは、俺はさらにがんばったし、戯れに生きるのはやめにしたんだ」 とはいえ、命以外の何かと戯れることで、彼の人生は変わった。 DMXのデビュー・アルバム『It’s Dark And Hell Is Hot』に感化されたケンドリックが、自分でライムを書き始めたのは13歳のときだった。3年間、彼はジェイ・Zやビギー(ノトーリアス・B.I.G.)、NASといったラッパーたちを研究し、その過程を通して、自分自身のサウンドを見つけたのだった。そして2002年の夏、16歳になったケンドリックは初めてレコーディング・ブースへと足を踏み入れる。そこで彼は自分の声のみならず、彼の周りで起きていたギャング同士の激しい抗争から逃れるための安全な避難所を見つけたのだった。 「とにかく逃げたかった」。ケンドリックはそう告白する。「あそこ(ブース)に入って、ラップして、自分の声を聞いた瞬間から、俺はそいつに夢中になった。つまり10年生(高校1年生)からは、ずっとマジメにやってるってわけ」 1年後、彼は自身初のアルバム『Youngest Head Nigga In Charge』を制作した。 そこから、彼は地元のレーベル、トップ・ドッグ・エンターテイメントのCEOの手にその作品を委ねることとなる。実はケンドリック自身の知らないところで、ティフィスはすでにそのCDを入手し、彼を探していたのだった。そして互いを見つけ出したとき、ティフィスはケンドリックに2時間のフリースタイルという試験を課した。彼はその試験に見事合格し、ただちに契約にこぎつけた。 たちまち”K・ドット”として名を馳せたケンドリックは、『Training Day』および『C4』(注8)といった2本のミックステープをリリースする。その一方で、ケンドリックの中には次第に自我が芽生え始めていた。 「ある朝、目覚めたら、自分がやりたかったことをやれていないような気がしたんだ」とケンドリック。「俺はまだ学びの途中で、この世界での自分の役割を見つけ出そうと必死だった。自分の目的が何なのか、自分でも分かっていなかったんだ。自分自身、そしてコンプトンで育ったあの小さなガキをその気にさせるために、何か違うことをやらないとダメだと思ったのさ。俺は自分の物語を語りたかった。好きか嫌いかは別としてね。だから俺は、もう一度最初からやり直したかったんだ。俺の本名でさ。それでこそリアルってもんだろう」 こうしてケンドリック・ラマー名義で初めてリリースされたのが、彼の代名詞ともいえるシングル「P&P」「She Needs Me」を収録した2009年のEP『Kendrick Lamar EP』だ。続いて2010年、「Michael Jordan」「Cut You Off」といった強力なシングルを擁する「Overly Dedicated」がリリースされた。 彼はほぼ一夜にして、多くの人から愛されるラッパーとなった。 「自分でもビックリだったよ」とケンドリックは言う。「世間に受け入れられるとは思っていなかったんだ。前とは違ったからね。いっそう気分が良かったよ。本当の俺自身だったわけだからさ。俺にとって自分のストーリーを語るのは容易なことだった。ストリートのくだらない出来事を語らないなんて、俺にとっちゃ簡単なことさ。人殺しについてラップしないこともね。そもそも俺に人を殺めた経験なんてないわけだし」 それから1年の間に、ケンドリックはアメリカ中の街やフェスでパフォーマンスを披露し、知名度は上がる一方だった。さらに、ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグのお墨付きを得、また新人ラッパーなら誰もが欲しがるヒップホップ誌『XXL』の名物企画「2011 Freshman Class」にも選出された。 2011年7月に待望のデビュー・アルバム『Section.80』をリリースする頃には、すでに”新世代を代表する声”という栄冠を手にしていたのだ。 「俺は自分の世代や、俺の弟たちの代弁者だったんだ」。3人兄弟の長男でもあるケンドリックはこう語る。「ロナルド・レーガン以降の時代に大人になった奴らの物語を語りたかった。俺の世代はまさにドンピシャだからね。みんなが2パックを避けて通れないのと同じように、レーガン時代っていうのも(俺たち以降の世代には)深く関連してると思うんだ。 『Section.80』がケンドリックなりの2パックなら、彼のインタースコープからのデビュー作『Good Kid, M.A.A.D City』は、彼なりのラングストン・ヒューズ(注11)的作品と言えるかもしれない。リード・シングル「The Recipe」および、ザ・ゲームやドレイク、リック・ロスなどとも同等に渡り合うその姿は、アメリカにおける西海岸のヒップホップの見方を変えるだけでなく、世界においてヒップホップ全体の見方に変化を与える久々のビッグ・アーティストの誕生を予感させている。 「何を語れば一番クールなのかっていうと、かつてはギャングスタのことだった」とケンドリック。「だが今は違う。本当にクールなのは、自分の家族を支えることについて語ることさ」 N.W.A.がヒップホップ・シーンにコンプトンの旗を立ててから24年。彼らの遺した”アティテュード”(注12)に順応する後継者が、また新たに地元から現れたのも、至極当然な流れと言えよう。 翻訳:日本映像翻訳アカデミー/高間裕子
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