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バイオグラフィ

本名:ジェイムズ・ポール・マッカートニー 1942年6月18日、セールスマン兼アマチュア・ジャズ・ミュージシャンの父の下、リヴァプールに生まれる。 14歳で母親が乳癌で他界。15歳の時にセント・ピーターズ教会でのジョン・レノンとの運命的な出会いを果たし、彼のバンド、クオリーメンに加入。翌年ポールの紹介でジョージ・ハリスンもバンドに加わり、1960年からビートルズとしてハンブルグ巡業をスタート。 1961年の2度目のハンブルグ巡業中に元々はリズム・ギターを担当していたポールが正式にベース担当となる。 1962年にはリンゴ・スターも加わった4人となり、10月5日に「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコード・デビューを果たす。 1966年6月29日に初来日を果たし、6月30日、7月1日、2日に日本武道館において初のロック・コンサートを開催。 1969年、写真家のリンダ・イーストマンと結婚。リンダは1998年の自身の死までポールを公私共に支え続けた。 ザ・ビートルズは1970年4月に事実上解散するまでの活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで1位を獲得。11作の1位獲得合計期間は162週。年間売り上げ最高アルバム獲得数4作と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続1位獲得30週はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が1位を獲得。さらにアメリカを初め各国でも高いセールスを記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。また”ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト”において第1位に選出。本国イギリスでは1965年に外貨獲得に貢献したとしてエリザベス2世からMBE勲章を授与され、1988年にはロックの殿堂入りを果たしている。 ビートルズのオリジナル曲の作詞作曲で最も多いのはジョンとポールの共作クレジットである「レノン=マッカートニー」で、ビートルズ・ナンバー213曲の内、144曲がこの名義。同クレジット作品は米ビルボード/英ミュージック・ウィークともNo. 1になった曲が多く、”ギネス・ワールド・レコーズ”には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。 1970年4月10日にポールは音楽的な意見の相違などを理由にザ・ビートルズ脱退を表明したが、その1週間後に発売した初のソロ・アルバム『ポール・マッカートニー』はビルボードとキャッシュボックスでも1位を獲得。 1971年には妻のリンダとの連名でアルバム『RAM』を発表、イギリスでは1位、ビルボードでも最高2位を獲得。さらに同年、妻リンダ、元ムーディー・ブルースのデニー・レインの3人を中心に構成されたロック・バンド、ウイングスを結成。ウイングスは1981年の解散までに7枚のオリジナル・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表。代表曲に「心のラヴ・ソング」「マイ・ラヴ」「バンド・オン・ザ・ラン」「007 死ぬのは奴らだ」「ジェット」がある。中でも1973年のアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』は全世界で600万枚以上のセールスを記録し、ザ・ビートルズ解散後のマッカートニーのアルバムとしては最大級の商業的成功を収めた。 また、1977年にシングル・リリースされたマッカートニーとレインの共作による「夢の旅人」は、ポールにとって初となる全英シングルチャート1位獲得作品となっただけでなく9週連続1位を獲得。当時ザ・ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」が持っていた英国におけるシングルの最多売上枚数記録を更新し、200万枚以上のセールスを記録し”第2の国歌”とも呼ばれるほどの大ヒットに。 1980年に初の来日ツアーを行う予定で成田空港に入国したポールは大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕。ツアーは全て急遽中止となる。イギリスに送還されたポールは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。また、ポールの逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。 1980年に10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』を発表。しかし、12月8日のジョン・レノンの突然の訃報にポールは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もることに。翌1981年にプロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、音楽活動を再開。 1982年に3枚目のオリジナル・ソロ・アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と1983年に4枚目『パイプス・オブ・ピース』を発表。『タッグ・オブ・ウォー』では、スティーヴィー・ワンダーとのデュエット曲「エボニー・アンド・アイヴォリー」が大ヒットし全米・全英No.1に。『パイプス・オブ・ピース』にはマイケル・ジャクソンが参加し、デュエット曲「セイ・セイ・セイ」が全米・全英No. 1を獲得。 1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。前2作に引き続きジョージ・マーティンがサウンドトラック盤をプロデュース。リンゴ・スターも参加し、 ビートルズ・ナンバーやウイングス時代のセルフ・カヴァーが話題に。 1985年7月、アフリカ難民救済のために行われた20世紀最大のチャリティー・コンサート”LIVE AID(ライヴ・エイド)“に参加し、イギリス・ステージのトリを飾った。 1986年、ヒュー・パジャムをプロデューサーに起用したアルバム『プレス・トゥ・プレイ』を発表。また、1987年には少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を制作、1988年にソ連限定で発表。 1989年にはエルヴィス・コステロとの共作『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を発表、全世界で250万枚以上のセールスを記録。1989年から翌年にかけては10年ぶりとなる「ゲット・バック・ツアー」と後に称されたワールド・ツアーを敢行。長年演奏を躊躇していたザ・ビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏された。 1990年3月には、24年ぶりの来日公演が実現。4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発表され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。 1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリース。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演。この作品は、同名のライヴ盤としてもリリースされた。以降、ポールはロックやポップスと並行してクラシック作品を発表している。 1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したポールは、「ニュー・ワールド・ツアー」を敢行。この年の秋にソロとして2度目の来日公演も果たしている。また、新たにポールはユース(キリング・ジョーク)覆面インストゥルメンタル・アンビエント・ミュージック・プロジェクト、ザ・ファイアーマンを始動、『ストロベリーズ・オーシャンズ・シップ・フォレスト』を発表。 1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトを本格的に始動、ジョン・レノン以外の3人のメンバーがジョンの1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画で、エレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を得て「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」という2曲の新曲を発表。 1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリース、全英1位、全米2位を記録。また同年にEMI創業100周年記念作品としてクラシック作品『スタンディング・ストーン』を発表。同年、英国のナイトの爵位を授与。 1998年の第40回グラミー賞で『フレイミング・パイ』がアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネート。同年、長年連れ添った妻のリンダが乳癌で他界。ポールは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んでクラシック作品『マイ・ラヴ~ワーキング・クラシカル』を捧げ、1999年にはリンダが生前に提案していたロックンロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発表し、ロックの殿堂入りを果たした。 2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『夢の翼~ヒッツ&ヒストリー~』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表。 9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼&チャリティを目的に、ポールの提唱によって10月20日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて『ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』が開催。ポールの呼びかけに、 デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー&キース・リチャーズ、エルトン・ジョン、ボン・ジョヴィをはじめとする多数のミュージシャンが参加した。 2002年には、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S.~ライヴ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。同年7月には元モデルで平和運動家のヘザー・ミルズと再婚。11月には、3度目のソロでの来日公演が実現。 2003年にはロシアのモスクワにある”赤の広場”で、外国人アーティストとして初となる大規模なコンサートを開いて話題に。ロシアはそれまで西洋や外国のロックなどそれまで一切受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。 2004年、第56回エミー賞にて10万人を集めたロシア公演の2時間のドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)を受賞。 2005年には”ライブ・イン・ザ・U.S.2005”と題されたアメリカ・ツアーを敢行、カリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、史上初となる地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へNASAを通じて生中継を実施。この時のナンバーは「イングリシュ・ティ」とビートルズ・ナンバーの「グッド・デイ・サンシャイン」だった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライヴを放送した史上初のアーティストとなった。さらに、7月に世界同時に行われた“LIVE 8(ライヴ エイト)”というチャリティ・イベントに参加。 同年秋にはナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎え、ほぼ一人ですべての楽器を手掛けたアルバム『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造』を発表、本作は2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネート。さらに先行シングルの「ファイン・ライン」がソング・オブ・ザ・イヤーにノミネートされる。翌年2007年の第49回グラミー賞においても最優秀男性ポップ・ヴォーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。 2007年にはEMIからヒア・ミュージックに電撃移籍。6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以来となるオリジナル・アルバムでのプラチナ・ディスクに認定。 2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から、名誉音楽博士号を授与。また、故郷リヴァプールの欧州文化首都を祝う大規模なコンサートを開催、ヘザー・ミルズとの離婚が正式に成立。さらに、ザ・ファイアーマンとしての3rdアルバム『エレクトリック・アーギュメンツ』をリリース。この作品でザ・ファイアーマンがポールとユースであることを初めて公表した。 2009年には4年ぶりに大規模なツアーを敢行、ニューヨークではMLBメッツの本拠地だったシェイ・スタジアムの代替として新しく建てられたシティ・フィールドで3日間公演を行った。その模様は後にライヴ盤『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ~ベスト・ヒッツ・ライヴ』でリリース。 2010年、米国議会図書館が2007年に創設したポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、バラク・オバマ大統領から直々に賞を贈られた。 2011年にはニューヨーク・シティ・バレエのために書き下ろした初のダンスのためのスコア『オーシャンズ・キングダム』をリリース。そしてナンシー・シェヴェルと3度目の結婚を果たす。 2012年には、ダイアナ・クラールらを迎えて制作したジャズ・スタンダード・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』をリリー。同年、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を獲得、フランス政府からはレジオンドヌール勲章オフィシエを贈られた。英国エリザベス2世の女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート2012』のトリを飾り、さらにはロンドン・オリンピックの開幕式で会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱した。さらに、ハリケーン・サンディ被害支援121212コンサートに参加。 2013年、第55回グラミー賞で『キス・オン・ザ・ボトム』が最優秀トラディショナル・ポップ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞すると共に、グラミー賞開設40周年を迎えるにあたり、1973年発表の『バンド・オン・ザ・ラン』が名誉の殿堂賞を獲得。 2013年、オリジナル作品としては5年ぶりとなる『NEW』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚売上)にも認定された。11月には「アウト・ゼア―・ツアー」の一環で11年ぶり4回目となる来日公演を大阪、福岡、東京で実施し26万人を動員。 2014年5月、前年に引き続き来日公演が東京と大阪で予定されていたが体調不良で中止・緊急帰国。7月5日、ニューヨーク・オールバニ公演よりツアーを再開。同年12月にはバンギー社制作のコンピューター・ゲーム「デスティニー」のエンド・タイトル・テーマ曲として提供した書き下ろしの新曲「ホープ・フォー・ザ・フューチャー」をシングル・リリース。 2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した『フォー・ファイヴ・セカンズ』が大ヒット。4月には改めて再来日公演「アウト・ゼアー・ジャパン・ツアー2015」が京セラドーム大阪、東京ドームで計4回、そして追加公演として1966年のザ・ビートルズ以来49年ぶりの日本武道館公演が実現した。 そして2016年、4月13日のカリフォルニア・フレズノ公演を皮切りに新たなワールド・ツアー「ワン・オン・ワン・ツアー」をスタート。6月10日には45年のソロ・キャリアの集大成となるオール・タイム・ベスト『ピュア・マッカートニー~オール・タイム・ベスト』をリリースする。 デビューから半世紀以上経過した現在でも、第一線で活躍し、ギネス世界記録で"ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されている最高のロック・レジェントである。
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