1994
一夜にして成功することを思えば、15 年の月日を待つのはうんざりするほど長い時間だったはずだ。1979 年、カーディフの学生寮での偶然の出会いが、リック・スミスとカール・ハイドを、その後 35 年(そして現在も継続中)に渡る共同のキャリアの道に進ませることになった。彼らが鮮烈な「デビュー」アルバムをリリースし、イギリスの最も重要な新人バンドと呼ばれるまでには、15 年の月日がかかったかもしれな
い。しかし、その衝撃は今でも続いている。 出会ってから何年もの間に、The Screen Gemz、Freur、Underworld(Mk 1)といったバンドが、組まれては消えた。イギリスの初期のクラブシーンに好奇心旺盛なリスナーが多かったエセックスに場所を移したこと、そして 19 歳の DJ、ダレン・エマーソンとの出会い(これはリックの義理の兄弟のアイディアだった)が、創造の完全な再生にインスピレーションを与えた。それぞれが独自に対照的なヴィジョンをアンダーワールドに持ち寄った。リックは楽器としてのスタジオの無限の可能性を探求し、ダレンはクリエイティヴ・プロセスでの大きな変更にインスピレーションをもたらし、カールは深夜の街を彷徨いながら、ストリートで交わされる会話の断片を拾い集め、最終的に極端に言葉が省かれたスタイルの歌詞をそこから生み出していった。
驚愕の傑作シングルが、この 3 人によって続々と作られた。Lemon Interupt 名義で試験的な試み(「Big Mouth」や「Dirty」をリリース)が行われた後、名義をアンダーワールドに戻した彼らは、「Mmm… Skyscraper I Love You」、「Rez」、「Spikee」をリリースし、ファースト・アルバムへの布石を打った。アルバムは 1994 年の初頭にリリースされ、高い評価を受けることになる。
燦然と輝く、うっとりするような情報の混乱――『Dubnobasswithmyheadman』は真に独創的な音楽の領域を占拠した。そこでは意識を混乱させられそうなフレーズがヒプノティックにループし、繰り返される歌詞は、彼ら自身を全く新しい音構造の世界に旅立たせることになった。そこは、Studio One に漂うクスリ
の煙が『Europe Endless』のテクノ・アンダーグラウンドに融合した場所。スミスとハイドが 90 年代初頭に設立を手伝ったアートプロジェクト、Tomato によりデザインされたレコードのパッケージは、モノクロームにまとめられ、グラフィックの歪みで仕上げられた。その年代にリリースされた他のどののアルバムと比較しても、主旨表明としてリリースされたそのアルバムのカバーが、ぱっと人目を引きつけるものだったことは間違いない。
当時(そして今も)、アンダーワールドは変則的だった。ブリティッシュ・クラブ・カルチャーの第 2 波から誕生したエレクトロニック・ユニットが書く曲は、没入型で知的、そして一体感を感じさせるものだ。バンドとしての彼らは、デコンストラクション方式を採っていた。カリスマ性のあるフロントマンが常に歌っていると
いうことはなく、彼の意識の流れは新しい言葉を紡ぎだすために、感情を排除し重ね合わされていた。
レコードは、当然のごとく絶賛された。NME 誌は「例えそれが、ふざけてイカれたものだったとしても、アンダーワールドは「曲」を書くことで、ダンスミュージックのネックだった個性のなさを解決してみせた」と報じ、またメロディ・メイカー誌はこのアルバムを、「『ストーン・ローゼズ』以降最も重要かつ、『スクリーマデリカ』以降最高のアルバム」と絶賛し、時代に先駆けてこのアルバムを「クラブ・カルチャーがついに成熟し、全ての人に向けドアを開いた記念すべき瞬間」と評した。
アンダーワールドを 1994 年 1 月の表紙にしたメロディ・メイカー誌は、その際「アンダーワールドの人間らしさは、ダンスミュージックがコンピューター技師の作った無定形の塊から作り出されるものという誤った概念を、ついに吹き飛ばすことだろう。願わくば、これ以降永遠に」と記している。
2014
『Dubnobasswithmyheadman』のリリースから 20 年。ラスベガスのダンスフロアの EDM サウンドトラックというイメージからの全体的変異と再想像が進む中で、アンダーワールドの DNA は、エレクトロニック・ミュージックとポピュラー・カルチャー、双方の間で広まっていった。ナショナル・シアターで上演されたダニ
ー・ボイルのシアター作品『Frankenstein』では、作品の柱となった楽曲で高い評価を受け、また世界的に賞賛された 2012 年ロンドンオリンピックの開会式では、エマーソンが 2000 年に脱退してからデュオに戻っていたスミスとハイドが音楽監督となり、イギリスの 300 年の歴史を駆け抜けるような、インスピレーションに満ちた幻想的な楽曲を担当した。
闇の中できらりと輝くような未来主義的アルバム『Second Toughest In The Infants』(1996 年)から、現代のダンスフロア・サウンドへの喜びにあふれた探求、『Barking』(2010)まで、彼らはモダニスト・サウンドを自らの広がり続けるヴィジョンに易々と落とし込んできた。ステージでは、世界で最も先進的なアイディアとフリーフォームなエレクトロニック・アクトとして、高い評価と地位を築き上げている。クラブでもコンサート会場でもフェスのステージでも、彼らのギグは生の「ダンス」ミュージックの中に、他に類を見ない共通のユーフォリアを生み出すものだ。
オリンピックのプロジェクト後、スミスとハイドは時間を作り、ソロ・プロジェクトに取り掛かった。ハイドは、美しい熟考的なソロ・アルバム『Edgeland』で、都市と州の間で繋がり合う不規則な広がりを掘り下げてみせた。一方、ブライアン・イーノとのコラボレーション(2 枚シリーズとなっている『Someday World』と『High Life』)では、アフリカン・ポリリズムとヨーロピアン・エレクトロニックを、厳選されたミュージシャン達で構成された強力なチームと共に探求した。(このメンバーには、ロキシー・ミュージックのアンディ・マッケ
イや、コールドプレイのウィル・チャンピオン等がいた)
ダニー・ボイル監督の 2013 年映画『Trance』で使用されたスミスの音楽は、強盗映画の音楽を明るい喜びで満たすと同時に、恐ろしいほど閉鎖的でアディクティヴな、新たな想像力をもたらした。また、オリンピックでのコラボレーションに続いてタッグを組んだのは、数々の賞を受賞してきたシンガー、エミール・サンデー。ここでスミスが作ったのが、アンダーワールドのクラシックソング、「Eightball」を髣髴とさせる、揺らめくようなバレアレス風グルーブの「Here It Comes」だった。
また彼らはアンダーワールドとして、大手自動車製造会社、フォルクスワーゲンの依頼を受け、自動車サウンドシステムの開発も行っている。「Play The Road」と呼ばれるこのシステムは、車の動きやスピードに直感的に反応したサウンドを提供し、音楽と同じように、未来のロード・トラベルのヴィジョンを感じさせるものとなっている。
2014 年夏、スミスとハイドは『Dubnobasswithmyheadman』の再リリースと共に、ロンドンで最も権威あるロイヤル・フェスティバル・ホールでの 1 度限りのアルバム再現ライブ開催を発表した。
チケットを求める電話で、ロイヤル・フェスティバル・ホールの電話回線はパンクした。チケットは販売開始後、本当に文字通り、最初の 10 秒で売り切れた。バンド結成後 35 年が経ち、イギリスの最新ベスト・アーティストと呼ばれてから 20 年が過ぎても、まだ一夜にして成功を収めることは可能なのだ―アンダーワールドにとっては。
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