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Miles Davis

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マイルス・デイビスはトランペッターとしてバンドリーダーとして、ジャズ史上最も重要な人物数人のうちの一人であり、1940年代に現役だったミュージシャンのうち、作品が40年経たのちも物議を醸した唯一の人物でもある。音楽の流れを彼以上に急激に変えた者はこれまでにルイ・アームストロング、チャーリー・パーカー、オーネット・コールマンしかおらず、彼と同様に幅広く長年に渡って影響を与えた者はデューク・エリントンのみである。 デイビスは政治的野心を持つ裕福な黒人歯科医の息子として、1926年にイリノイ州オルトンで生まれた。彼はジュリアード音楽院に短期間在籍したのち、1945年にチャーリー・パーカーの19歳のサイドマンとして、初めての大きな録音を行っている。ジュリアードへの入学は、いずれにせよ計画的なものだった。パーカーやディジー・ガレスピーが先頭に立ってビバップとあだ名の付いた新しいスタイルでジャズに新風を巻き起こしていた、ニューヨークに行くための口実だったのだ。 初期のデイビスが頭角を現したのは、ガレスピーの弟子的存在となりパーカーのサイドマンになって間もなく、彼らに忠実に相反する存在となったことだった。「ディズ(ガレスピー)やバード(パーカー)はものすごく速いメロディやコード進行を用いていた。彼らはどんな音もそういう感じに捉えていたからである。…速度が速くて、高音域で」デイビスはのちに、(詩人・ジャーナリストのクインシー・トループと共に著した)1989年の自伝「マイルス」でこう振り返っている。「彼らの音楽に対するコンセプトは、簡素さよりは複雑さを好んでいた。自分は個人的には、音の数を削ぎ落としたかったのだ」 デイビスはジャズ界で最も独特の存在となったことは、モダン・ジャズが優れた技巧を要するものであると考えられていた当時彼が一見限界ありそうな技巧を披露していたことを鑑みると、尚更素晴らしく思われる功績である。デイビスはトランペットの中音域にこだわり、多重音を長く吹くことを賢明に回避しながら、少ないものから多くのものが生まれることもあること、すなわち、スウィングとは音符の配置によって決まるものであり、またインプロヴィゼーションによるソロの肝はそのプレイヤーが深い感情をどれだけ喚起することができたかにかかっていることを証明した。彼はバラードに長けていたが温室育ちの花にはほど遠く、ハードにスウィングし、力強い男らしさを見せつけたのだ。彼はそれにより、フランク・シナトラやアーネスト・ヘミングウェイのような模範的存在となった。 デイビスの個性はソロ奏者としても際立っていたが、彼の最大の偉業は恐らく、バンドリーダーとして、また新しいトレンドの先導者としてのものだろう。円熟した老年になるまで生き、長年に渡ってキャリアを楽しんだ多くの者を含め、ジャズの革新者がミュージシャン仲間に著しい影響を与えた期間は殆どの場合比較的短く、大方は彼らが若くシーンに登場して間もない頃だった。 対して、デイビスは数十年にわたってジャズを先導している。ある意味、彼のキャリア全体が、バップの批評の進行形として捉えることのできるものである。いわゆるクール・ジャズ(1949年と50年の、編曲家のギル・エヴァンスとのコラボレーション)やハード・バップ、または“ファンキーな”ジャズ(1954年録音の「ウォーキン」。響くゴスペルのエコーと、ホレス・シルヴァーの神業なピアノ演奏が特徴)、即興による様式(1958年の曲<マイルストーンズ>や、デイビス、ビル・エヴァンス、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイが一つの様式にいかに多くのアプローチを取ることができるかを示した1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」)、そしてジャズとロックの融合(「イン・ア・サイレント・ウェイ」と「ビッチェズ・ブリュー」。ともに1969年録音)の起源、少なくともそれが脚光を浴びたきっかけは、彼がバップをその本質的要素まで削ぎ落とした功績によるものである。彼はフリー・ジャズに対して言葉ではネガティヴな評価を下していたが、1960年代半ばの、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスが在籍したバンドでは、フリー・ジャズのこれらの要素を他のどのアンサンブルよりも吸収し、音楽のメインストリームへと昇華させていった。 ロック系の会場で演奏したり、アンサンブルにアンプを通した楽器を導入したり、(「ビッチェズ・ブリュー」の)ボリュームとビートの両方を上げたりすることにより、より若い観衆(具体的には恐らく若い黒人の観衆)を引き込もうとした1969年の決断は、デイビス自身が飽きつつ内輪受けになっていると感じていたモダン・ジャズに対する批判をも意味した。結果、彼は1975年から1980年にかけて、録音と公での演奏活動を休止してしまう。その間彼は沈黙を保ちつつジャズ界に生き続けたものの、トランペットに触れることは滅多になかった。 デイビスのより熱心な崇拝者たちにとって、彼の音楽は美しい恋人たちや流行の最先端をいくワードローブ、高級スポーツカーへの嗜好、そして苦悩する黒人の怒りなどと同様、彼の男性的な神秘性の一つにすぎなかった。彼はインサイダーのライフスタイルとアウトサイダーのスタンスを併せ持っていたのだ。アルト・サックス奏者のオーネット・コールマンもかつて語っていたように、デイビスは白人男性のような生き方をした黒人男性だった(そしてそんな生活は無理だと諭す者を人種に関わらず拒んだ人物だった)。 マイルス・デイビスは60年もの間ジャズの最前線に君臨した。この時期彼と共演したサイドマンの名前を連ねれば、モダン・ジャズの歴史をそのままカプセルに収めたかたちになるだろう。しかしデイビスは、周りを最高のミュージシャンで固める以上のことを成し遂げている。彼は自分の技量と同様、彼ら各々の技量にも鋭い目を光らせていたのだ。マイルス・デイビスのトランペット(もしくはフリューゲルホーン)が間違えようのない音だとしても、彼の率いたバンドには二つとして同じように聞こえるものがない。
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