むー の《ロックの殿堂》シリーズ!
雛形版のブルース・スプリングスティーン、
ナンバー・シリーズでの「ザ・ベンチャーズ」「ヴァン・ヘイレン」「クイーン」「ポール・マッカートニー&WINGS」に続く第5弾は
《セクシーアイコン》デボラ・ハリーの「ブロンディ」です。
《選曲》
①『ハート・オブ・グラス』(78年)……アルバム『恋の平行線(Parallel Lines)より
②『銀河のアトミック("Atomic")』(79年)……アルバム『恋のハートビート - Eat to the Beat 』より
③『どうせ恋だから(ONE WAY OR ANOTHER)』(78年)……アルバム『恋の平行線 - Parallel Lines』より
④『コール・ミー("Call Me")』(80年)……サウンドトラック『アメリカン・ジゴロ』より
当初は、サウンドトラック担当のジョルジオ・モロダーが、大ファンだというフリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスに依頼しますが、
契約の問題で成就せず、ブロンディにお声がかかりました。
イタリア人で英語が得意でないモロダーに変わって作詞も担当したデボラは、
主題歌を「何の制約もなく、好きなように作っていい」と言われ、
”Man Machine"という仮のタイトルがついていたメロディに映画のシーンを観ながら歌詞をつけました。
「彼は変なタイトルを曲につけていたわ。『マシン・マン』とか『メタル・マン』とかいったね。
彼から呼び出しがかかって、ホテルに行くと映画のラフなビデオ版を見せてくれた。
メロディだけがすでに収録されていたの。
このビデオを観て、家へ帰ってすぐに歌詞をつけたのよ。
収録するのに2~3時間しかかからなかった。」
また、デボラ・ハリーは、サントラの仕事を敢えて引き受けた理由をこう語っています。
「私たちの音楽領域を広げてみたかったの、私たちは自分たちの殻に閉じこもりたくなかったから。
自分たちの音楽を作ってしまうとその方が安全だし受け入れられるから、その音楽に執着してしまう人がいるわ。
でも私たちはもう少し大胆でいたいと思っているのよ。」と……
⑤『ラプチュアー (Rapture) 』(80年)……アルバム『オートアメリカン (Autoamerican)』より
ラップをフィーチャーした楽曲として最初の全米首位曲。
⑥『夢みるNo.1(The Tide Is High)』(80年)……アルバム『オートアメリカン』より。
ジョン・ホルトが作詞作曲した楽曲で、ホルトが所属していたジャマイカのグループ《パラゴンズ》が1967年に発表しました。
1981年1月31日付のビルボード・Hot 100で1位を記録。
イギリス、カナダ、ニュージーランドで1位、アイルランドで2位、オーストラリア、ベルギーで4位を記録するなど世界的な大ヒットとなりました。
1981年のビルボード年間チャートの17位を記録し、ゴールドディスクに輝きました。
⑦『ハンギング・オン・ザ・テレフォン(Hanging On The Telephone )』(78年)……アルバム『恋の平行線 - Parallel Lines』より
⑧『ドリーミン(Dreaming)』(79年)……アルバム『恋のハートビート - Eat to the Beat』より
(全てシングル・カット曲)
《概要》
女性ボーカリスト デボラ・ハリーが在籍し、1970年代末から数々の大ヒット曲をリリースした
《ニュー・ウェイヴ》の代表的グループ。
1982年に一度解散したが、1997年に再結成。
全世界のアルバム・セールスは4000万枚以上。2006年『ロックの殿堂』入りした《レジェンド》です。
Wikipedia によると、「ブロンディ」というバンド名の由来は、
通りがかりのトラックの運転手が、デボラ・ハリーに
「” Hey Blondie "= ”よぉ、ブロンドのお姉ちゃん”」
と声をかけた事からとったそうです。
1976年12月、デビュー・アルバム『妖女ブロンディ(Blondie)』発表。
1978年2月、セカンド・アルバム『囁きのブロンディ(Plastic Letters)』発表。
シングルカットされたカバー曲「デニスに夢中」が
イギリスで2位、オランダで1位、ベルギーで1位、アイルランドで3位を記録。
1979年、シングル曲「ハート・オブ・グラス」が米国、イギリスなど6か国で1位を記録。
ハリーは《セックス・シンボル》としても大いに注目されるようになります。
1980年2月公開の映画『アメリカン・ジゴロ』の主題歌、ハリーとジョルジオ・モロダーが共同で作詞作曲した「コール・ミー」は、米英で1位を記録。
同年10月に発表したカバー曲「夢みるNo.1」も米英で1位を記録。
《飛ぶ鳥を落とす勢い》でしたが、
結成メンバーの《ギタリスト》クリス・シュタインが、自己免疫疾患である 尋常性天疱瘡にかかっていることが判明し、
ハリーはシュタインの看病に当たることを決め、バンドは1982年に解散しました。
デボラ・ハリーは、1983年、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『ヴィデオドローム』に出演。
以後、女優としの活動も並行して行います。
そして、《機は熟し》1997年にブロンディは再結成を果たしました。
デボラ・ハリーは、2017年 イギリスのオンラインメディア「PinkNews」に、《セクシーアイコン》として名を馳せた自身のセクシュアリティについてこう語っています。
「私は、複数の女性の友人に恋愛感情を抱いています。
私がバイセクシュアルであることを公言する理由は、私にはセクシュアリティを“選ぶ権利”があると思うから。
多くの人が私と同じように感じているはずです」
また、1981年に彼女はバンドに寄せる特別な思いをこう語っています。
「今朝、自分自身について気づいたことがあります。
私は、幼い頃からいつも“ブロンディ”と呼ばれてきましたが、
いつの間にかその純粋無垢なブロンディは、酸いも甘いも噛み分けた“ダーティ・ハリー”になってしまった。
でもこのバンドの中では、いつも幼い頃の“ブロンディ”でいられるのです」と……
後に行われた「No Exit」ツアーのパンフレットには、
ブロンディは単なるバンドではなく、自身のペルソナだと記しました。
さらに後進の女性ヴォーカリストたちに大きな門戸を開いたデボラは、自身を成功へと導いた要因をこう分析しています。
「バンド内で紅一点の“フロントウーマン”になったことで、私はアグレッシブさを発揮しなければなりませんでした。
でも、私にはそれがごく自然なことに感じられて、しっくりきたのです。
一つ言えるのは、私の中の“マスキュリン・ドライブ(男性的な原動力)”が成功に繋がった、ということ。
パティ・スミスやプリテンダーズのクリッシー・ハインドは、ある種の男性的な原動力を持っているといつも感じていました。
そして私の中にも、彼女たちのそれと同じものがあると感じた時は、本当に嬉しかったです」
2014年に行われた『イブニング・スタンダード』紙のインタビューでは、人権問題に対する自身のアティチュードについてこう語りました。
「70年代に南アフリカでのギグ(ライブ)の依頼を受けたとき、『アパルトヘイトをやめなければ、ギグはしない』と私は断りました。
2014年にはソチオリンピックでのパフォーマンス依頼も断りました。
理由はロシアという国のマイノリティへの偏見です。
政府からは私たちへの批判が上がりましたが、それで結構。
私は自分の心に従って動くだけ。たとえそれが政治的な圧力になっても」
人権問題にも取り組むデボラ・ハリーは、イギリスでの同性婚の合法化の際に、こう声明を出しました。
「他人を傷つけないのであれば、自分の選んだ人生を送る権利が全ての人にあります。
人を愛する行為は誰にも邪魔されるべきではないですし、それ自体とても価値のあることなのです」
まっこと立派!
アルバム『Pollinator』をリリースした際には、40年に渡るキャリアを振り返り、ユーモアたっぷりにこうコメントしました。
「この40年間における女性ポップスターの変化を振り返ると、相変わらず女性が性的対象として見られていることは事実です。
とはいえ、セクシュアリティはオールジェンダーにとって大切なもの。
女性のお尻を見たいと思う男性がいるなら、私みたいに男性のお尻をもっと見たいと思っている女性もいる。
まあ、そんなこと思うのは、多分私だけでしょうけれども(笑)」
いつまでも《イカす》ねーちゃん で、いてほしいと思います‼️
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