ピーター・トーマス版『ドラゴン危機一発』サウンドトラック配信記念!
ブルース・リーが世界的成功を収めた
『ドラゴン危機一発』は、1971年に香港でまずは公開され、
そして世界公開となったのが2年後の73年。
しかし、オリジナルのジョセフ・クーの音楽はあまりに東洋的で、
インターナショナルで公開するには困難である、ということで
(ちょっと何言ってるか わかんないです😩)
新しいサントラとして起用されたのがこのピーター・トーマスの音楽。
この音楽で中国とイギリスを除いて公開されました。
ま、当時ブルース・リーの映画のサントラというのは、
国ごとの事情などにあわせて差し替えられていました。
日本でも、当時は違う音楽がサントラとして発売されていた。
(最高です!)
そして今回、インターナショナル版のピーター・トーマスのスコアが正規流通で発売が決定しましたが
早く マイク・レメディオス のVer を配信して欲しい……と、サンタさんに願うばかりです <(_ _)>
《ブルース・リー》
香港の俳優であった父が家族を連れてアメリカを長期巡業中の1940年11月27日、サンフランシスコの病院でブルース・リーは生まれました。
第二次世界大戦終了後、ブルース・リーは香港にて子役として多くの映画に出演。
また上海精武体育会香港分会にて
北派少林拳の邵漢生に指導を受け、
節拳(弾腿門)などを学びました。
また1953年には13歳のブルース・リーが5年間、詠春拳(Wing Chun)の使い手である 葉問(イップ・マン)のもとで修業しています。
18歳のときに父から渡米を命じられたブルース・リーは、わずか100ドルの所持金で単身シアトルに移住。
ブルース・リーは新聞配達のアルバイトをしながら高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。
在学中に、道場を開いて中国武術の指導を始め、その後、道場の生徒でもあったリンダ・エメリーと結婚。
その後、ブルース・リーは大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(ジークンドー)を創始する。
25歳のブルース・リーが詠春拳の演武をしたフィルムがTVプロデューサーの目に止まると、
TVシリーズの準主役に抜擢される。
日系アメリカ人のカトー役を演じたブルース・リーは派手なアクションで人気を博した。
TVシリーズの後、米国の連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、
自ら主演を願ったが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった。
1971年、30歳のときにブルース・リーの主演作である香港映画『ドラゴン危機一発』が公開され、
一躍、香港のトップスターに躍り出る。
1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。
1973年7月20日、頭痛を訴えたブルース・リーは鎮痛剤を飲んでベッドに横になったが
そのまま昏睡状態に陥る。病院へ搬送されたが死去。香港にて32年の生涯を閉じた。
その後、『燃えよドラゴン』が世界各地で公開され、大ヒット。
アクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでに彼は亡くなっていた
《選曲》
①『ドラゴン怒りの鉄拳』~『ドラゴン危機一発』
(2021年、配信停止に ⤵代わりに、なんか《ドラゴン》っぽいのを😅)
②③⑤『ドラゴン危機一発』
④『燃えよドラゴン』
⑥『ドラゴン/ブルース・リー物語』(93年)
⑦『燃えよ! カンフー』(72年~75年)
⑧『グリーン・ホーネット』(66年~67年)
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